沼袋の町の発展について
沼袋郵便局前局長 矢島和雄
平成12年12月 沼袋親交会創立60周年にあたり作成
まえがき
私は、この沼袋の土地に代々住んでおります矢島一族の一人として、昭和5年に沼袋で生まれました。 今から80年前と言えば大正10年代ですが、この頃の沼袋が田園地帯であった事を、現在の発展した町の姿から想像できるでしょうか。それが、大正末期から昭和の始めにかけて、徐々に変化して参りました。このたび、当時の沼袋駅前通り商店街の様子をふり返って地図を作成する機会を与えられました。
そこで、どの様なお店が当時あったかを、自分の子供の頃の記憶をたどり、又、すでに故人となられた方から聞いたことと併せ、現在も沼袋商店街に住んでおられる10名位の方々のご協力をいただいて作成してみました。もとより、完全な姿を再現することは出来ませんが、概要は復元できたと思っております。ご参考にしていただければ幸いでございます。
沼袋郵便局前局長
矢島和雄
昭和初期 沼袋での水田の田植え風景
(なかの写真資料館所蔵)
町が形造られていくためには、やはり基本となる道路が整備され、人々を運ぶ乗物であるバスや鉄道が敷かれることが基本だと思います。
1)駅前商店街の道路の建設
田んぼや畑の中を曲りくねって通っていた農道が整備されるきっかけになったのは、江古田三丁目の高台に東京都が「結核療養所」を開設したことにあります。
療養所は反対を恐れて内密の中に計画され、大正9年5月に開設されたのです。これを利用する人は、中野駅北口から人力車か徒歩で行かなければなりませんでした。此の間、最も道路事情が悪かったのが沼袋の低湿地でした。そこで現在の中乃見家鮨さんの所から坂の上までの道を造るのに今の坂よりもっと急勾配の農道を削って、その土で埋め立てを行なったのでした。その際、道も直線にされました。この道路は「府県道第68号線」と名付けられています。
コンクリート補装でなく砂利道でした。
療養所の利用者が増えるにつれて、関東大震災の大正13年になって「ダット8号」という8人乗りの小型バスが運行されるようになりました。
戦後の沼袋の商店
(伊藤善利氏提供)
地図の中の「バス停留所」というのは、このバスのものです。女性の運転士さんがいたそうであります。当時の人に大変珍しがられ、途中で手をあげれば止めてくれたと伝えられています。
2)西武鉄道の開設
西武鉄道は、昭和2年に小田急線と同時に開通しました。
当初は高田馬場から東村山間で、沼袋駅は4月15日に開業しております。その際、駅前で花火を上げて祝ったそうです。この鉄道は、軍隊の鉄道隊が訓練を兼ねて行ないました。言ってみれば、西武鉄道が買収した土地の上は、国が援助したことになります。先の時と同じように、田んぼの中の鉄道敷地を埋め立てるには、更に多量の土が周囲の高台からトロッコによって運ばれました。東京市が雇用した100人近い人夫の方が、これに携ったそうです。その方達の所謂「飯場」を提供されたのは、伊藤初五郎さんでありました。
沼袋駅付近
(狩野景茂氏提供)
3)商店会の創設
道路が出来、開設され、それに伴って周囲の高台が宅地化されて、人々が住み始めるようになり、将来の発展を期待して商店が徐々に両側に開業されていきます。
そして昭和3年に「商盛会」という会の名で、現在の親交会の前身が発足したのです。
初代の会長さんには、地元の矢島作蔵氏が就任しました。
4)米軍の空襲によって商店がすべて焼きつくされた
昭和20年(1945年)5月25日の夜8時頃に、警戒警報が空襲警報に変わり、西方より探照灯に写し出されたB29爆撃機が次々と近づき、「焼夷弾という木造家屋を焼いてしまう効果的な爆弾が投下されたのです。ものすごい音と共に1メートル間隔位の範囲に落ちて、その場から火花が散って、周りの物に飛び散り燃え始めます。これではたまったものではありません。命中しなくても、周りから燃え移るのです。私は15才でしたが、この有様(自分の家が焼ける)を目の当たりに見ておりますが、一生忘れることが出来ません。こうして町が全滅してしまい、朝まで焼けて大きなお寺さん共々、焼野原になってしまったのです。
その3カ月後に戦争が終わりました。以来、50数年よくも今のような発展した姿になったものだとつくづく思います。焼かれて後に元へ戻った方と、戦後に開業された方々の並々ならぬご努力の賜だと考えております。
空襲後の新井町
(中野区ホームページより転載)
5)新しい町づくりの為の道路拡張計画「304号線」に対する反対運動
東京都は都内に何カ所か道路拡張計画を持っておりましたが、その中の一つに、沼袋の通りを、両側の商店を何メートルか下げて広くする計画が入っておりました。都市計画道路「304号線」と呼ばれました。
丸山の十字路から江古田四丁目商店街を含め沼袋の妙正寺川までの道路の拡張でした。しかし、前に述べました、焼けてすぐの時ならこの計画は実現したと思いますが、昭和50年代に至って両側にビルを含めた商店がぎっしりと立ち並んだ時点の発表でしたから大変です。
町をあげて大反対の声が巻き起りました。
詳細は書き尽くせませんが、区の説明が何回も行なわれ、次第に町の皆さんとの空気が険悪となっていきました。遂に区役所まで大勢でハチ巻きをしてデモ行進を2度決行するまでなったのです。
商店街の会長さん以下、全役員が先頭に立ち、行進して、区役所の前でシュプレシコールで気勢を上げたのを私もはっきり覚えております。この為に、道路拡張計画は凍結となって終了したと思いますが、現在、この計画が完全に消滅したのか、明確な調査しておりませんので判りませんが、兎に角、その時は大変な騒ぎでありました。そして、このことによって、町の皆さんの団結が強固になったことは、大きな副産物であったのではないでしょうか。
こうして、現在に至る町の基礎が出来上がりました。
沼袋郵便局創立90周年を記念し、紙面を再編集し、印刷致しました。
写真をご提供下さった皆さまに、心より感謝申し上げます。
平成31年 春彼岸
沼袋郵便局現局長 矢島信幸